ライス大学化学科の教授会で隣に座っていた同僚のRon Parryが、議題のことなどお構いなく何やらセッセと紙に書いていた。何をやっているのか聞いてみると、菌が産生する面白い構造の化合物があるけど、チロシンからどのように生合成されるのかを考えていたそうだ。どれどれ、と構造式を見てみるとなるほど小分子ながら面白い構造を持った化合物だったので、私も教授会のことは放っておいて全合成を考えてみた。天然物はカルボン酸で、メチルエステルに変換してX線で構造を確定したそうだ。ちょうどcyanocyclineの合成中間体を作っていたので、途中まではそのルートが使えそうだと思い、直ちに全合成に着手した。No Name化合物と名付けたのは、発見者が名前を付けなかったからで、長ったらしい学名よりは呼びやすいからである。
“Total Synthesis of dl -Methyl 3-(3-isocyano-6-oxabicyclo-[3.1.0]hex-2-en-5-yl)-2-Propenoate,” T. Fukuyama and Y. M. Yung, Tetrahedron Lett. , 22, 3759 (1981).
このプロジェクトは香港出身の大学院1年生であるYung君にやってもらうことにした。彼は真面目で性格も良かったが、私には考えられないほど不器用で、全合成には成功したものの、有機化学には向いてないと言って、修士号取得後にBaylor College of Medicineの薬理学科に移り、そこで薬理学の博士号を取得した。後年、彼よりもセンスの悪い学生も何人かは居たものの、向いてないから辞めた方が良いって言わなかったので、若い頃はかなり厳しかったんだなー、と少々反省している。
Cyclopentadiene (1-1) とtosyl cyanide (1-2) のヘテロDiels-Alder反応は文献既知である。Tosyl cyanideは当時市販されていなかったので、MeC6H4SO2Naと隣の研究室からボンベ入りのClCNとで大量合成した。付加体 (1-3) のTs基は脱離基であるので酢酸メチルのアニオンの付加脱離でvinylogous urethane (2-1) を生成する。なお、ここで活性メチレン体ができるのでアニオンは2等量使わなければ反応は完結しない。(学生諸君はこういう反応をやる時は要注意)このエナミン体 (2-1) は酸存在下でNaBH3CNを用いるとexo 面から還元されてendo 体 (2-2) が得られる。このアミン (2-2) をacetic formic anhydrideでアシル化してformamide体 (2-3) を得た。なお、この混合酸無水物はギ酸とピリジンを混ぜておいて、それに無水酢酸を加えてしばらく放置すると出来るので、大抵はそれが使えるが、どうしても純粋なものを使いたければ蒸留しなければならない。次にMCPBAで酸化すると、exo 面から優先的にエポキシ化が起きてエポキサイド (3-1) が生成する。この化合物 (3-1) をt -BuOKで処理すると、エステルのα位が脱プロトン化し、歪みのかかったアミドが脱離する。次にα,β-不飽和エステルの酸性プロトンであるγ位のプロトンが塩基で脱プロトン化されるためにエポキサイドの開裂が進行してワンポットで重要中間体 (3-2) が得られる。ここまでは当初の計画通りに反応が進行した。
MCPBAによる (1-1) のエポキシ化はHenbest ruleに従ってアルコールと同じ側から生成物 (1-2) を与えた。ここでアルコールをメシル化して、得られた (2-1) をホスゲンとEt3Nで脱水するとイソニトリル (2-2) が得られた。イソニトリルは酸性条件では分解するが中性、塩基性では比較的安定な官能機であり、αプロトンは少し酸性になっている。例えばPhCH2NCを低温下でBuLiを作用させると脱プロトン化がきれいに進行する。ここでは当初t -BuOK/t -BuOHでメシレートを脱離させようとしたが目的物は得られなかった。そこで市販のt -BuOK粉末を低温下で用いたところ脱離反応が進行して望む化合物 (3-1) が得られた。この化合物は不安定でNMR測定後に溶媒を除去乾固したら15分ほどで褐色になり分解してしまった。No Name 化合物は小さくて合成容易のように見えるが、そんなに簡単な化合物ではない。おそらくその後も誰も全合成を達成していないのは、ただ単に人気が無い化合物ということだけでもなさそうかな?